若旦那の夢【参代目の挑戦】

皆さん、初めまして。
亀山温泉ホテル 参代目 若旦那の 鴇田英将と申します。


昭和54年12月19日生まれ いて座 B型
九星気学では 三碧木星 
ISD個性心理学では 感情的なライオン

子煩悩で楽天家、明朗活発で情熱的、すぐ大きなこと、夢、思いを語る
非常にだらしなく、集中力が続かず飽きやすい。
口だけは達者だが、行動が伴わず、段取り下手のためすぐに息づまるが
人に頼ることが出来ず何でも自分でやろうとして失敗する。
が持ち前の明るさと未来志向で、より成長しようと前と上を向いている。

好きな言葉
・人生楽笑
・おもしろきこともなきをおもしろく
・今日もちうるところの材木はすなわち先人たちの植える処
 然らば汝後人の為にこれを植えざるを得ん


2008年8月、私はまさに満を持して旅館経営に勤しむべく亀山温泉ホテルへと戻ってきました。当時から今まですでに時は7年が経過しようとしております。
振り返るにはまだまだ短い年月かもしれませんが、私にとってこの7年は本当にかけがえのない時間であったと思っております。

決して楽な道ではなかった、でも全ては自分に必要なことしか起きていない。そう思っております。
今の自分の心渦巻く複雑な思い、正直な思いを今日はこの新しい若旦那ブログ【若旦那の夢】で述べたいと思います。

初めてこのブログを読まれる方、私はこういう想いを持って現在志事に取り組んでおります、私はこういう人間ですよと知ってもらいたいですし、

以前から私を御存知の皆様も、これが若旦那鴇田英将の原点たる思いなのだと再確認して頂ければと思っております。

また現実リアルに交流をさせて頂いております皆様もこの私の想いを知ってもらいたい。



ここ地元亀山にある一番大きな旅館の跡取り息子として私は生を受けました。昭和54年12月のことでした。実家である東京に里帰りし、その2か月後に私を連れて戻ってきた母は、表玄関から入れることにほっとしたようです。(田舎である亀山は当時より長男を産むということが無言のプレッシャーのようにあったらしく、もし女の子の場合は裏口から入ってきなさいと言われていたようです)


待望の長男として、それはそれは大騒ぎのお祝だったようです。田舎の跡取りとしての宿命なのかもしれませんね。周りはそのような目で見て私を育ててくれたのでしょうから。
ただ父親からも母親からも一言だって『旅館を継いでほしい』と言われたことはありませんでした。

父と母の忙しい毎日をずぅっとずぅっと見てきました。家にいないのが当たり前で、ご飯は夜遅くなるのが当たり前、小さな妹や弟は事務所のソファーで眠っている。学校から帰ってくれば誰もいない家にランドセルを置いて事務所で遊ぶ、、、そんな毎日でした。



忙しい合間を縫って、旅行もたくさん連れて行ってもらいました。


しかし旅館の子供に生まれてきて嫌だって思った記憶は一度たりともありません。

こういうものだ、これが当たり前だという中で生活をしてきました。
他の家庭と比べていなかったかもしれません。でも一番は両親が私たち家族をたくさん愛してくれていたからなのは間違いありません。

今こうして亀山温泉ホテルを継承すべくこの場にいることは、全て自分の意志によって決めたもの。自分の中ではそう思っておりました。少なくても戻ってくるその時までは。
私が明確に将来のことを両親に伝えたのは、大学の志望校を決める時でした。

『将来は経営者になるのだから、経営学科に進もう』

それを両親に伝え、いずれこの亀山温泉ホテルを継ぐという意思表示をしたのでした。

17歳の冬です



その時は具体的に何歳くらいで戻ってきて、どういう人生を歩むのかなんてちゃんと考えていなかった。

ただ漠然と、本当に漠然と、いつか亀山に戻ってきてここで働くのだとなんとなく考えている程度でした。
郷土愛とか、地元貢献とか、俺が盛り上げてやるとか
そんな思いはきっと皆無だったでしょう。(少なくても口には出していませんでした。)
父に『俺は継げということはいった事はないが、おまえがこの旅館を継ぐつもりで育ててきたのだ』と言われた時、両親の大きな愛情と期待に包まれていたことを改めて知り、自分は敷かれたレールの上を走っているのだと思ったものです。自分の意思はすでにレールが示してあったのだと。不思議と嫌じゃなかったんですよね。

期待通りに、いや期待以上になってやるのだと嬉しかったのが本音です。



『でっかい男になって帰ってくる』 僕はひとり暮らしを始める時に母にそうあてた手紙を残して花の大都会東京で一人暮らしを謳歌しました。

21歳になる大学3年生、将来的なことを踏まえ私は父と母が働いていた東京プリンスホテルでルームサービスのアルバイトを2年間続けました。

特に意識も高いわけでもない自分だった気がしています。
ただ接客業、しかもサービスレベルの高いホテルで働けたことは、大変いい勉強になりました。

就職活動も、もう旅館ホテル一本で受け続けました。他業種に進むことや、旅行会社に進む道なども当然沢山の選択肢はありました。しかしもう心はそこに据えておりました。

いくつか受けている中に、私が5年3カ月働く事になる伊香保温泉福一がありました。

会社説明会の時、上座に座っている福田社長に声をかけられました。
『鴇田君のお父さんは千葉県で旅館か何かをしてるのかい?』

驚きました。とっさに僕は『いや、していません』と嘘をついてしまいました。

自分の家が旅館であることが分かれば、採用に不利になってしまうのでは(いずれ辞めてしまうから)と考えたからに他ありません。

しかしここで自分にとっての父親の偉大さを痛感することになりました。
福田社長の2年先輩で、私の父は全旅連青年部(今私が所属している団体)で副部長をしていた為に『千葉 鴇田』という名前が珍しく、福田社長は気付いたのでした。

次の面接の際私は正直に福田社長に打ち明けました。

福田社長は快く『やっぱり鴇田さんの息子さんだったか!!英将、うちで修業していけ。最低3年はみっちり働けよ!!』と声をかけて頂き、その場で採用が決まったのでした。



ともに入社した同期にも福島の旅館の跡取りがおり、お互いの立場を認識し、共に頑張ろうと誓いをたてました。

彼は同期と役員が集まる場で声高らかに『福一で15年修業して実家に戻ります』と宣言をしたのを聞き

自分はいったい福一で何年働いた後に実家に戻るのか、この時点でも全く決めていない自分に戸惑いもありました。

同期にも先輩にも、上司にも、そしてお客様にも恵まれ、私は伊香保温泉福一で色々な勉強をさせてもらいました。

フロント業務からスタートし、仕入れ業務にも携わり、再度フロントに戻り、主任から、最終的にはフロントマネージャーのポディションまで任せてもらうことが出来ました。

実家を継ぐためいずれ辞めることが分かっている自分に「そんなことはわかっている、それでもトキタに任せたい」そう認めてくれた上司に心から感謝しました。

しかし若干25歳のリーダーは、様々な苦しみにもがき、無理をし続けました。人をまとめることの大変さを社会人として学んだ2年間でした。しかしそれもまたみんながいるから様々なプレッシャーの中で潰れずにすみました。

この時にいまの若女将とお付き合いをさせてもらったのもとっても大きなことでした。
何より最高のパートナーを見つけることが出来たことが、福一を退社し実家に戻ることへの大きな不安をなくしたのかもしれません。



福一での5年3ヶ月、悔し涙を流したことも、納得できないことにいら立ちを覚えたことも、大先輩に食って掛かったことも、大女将と喧嘩したこともありました。沢山のお客様に出会い、最高の仲間に支えられ、先輩にご教授ご指導いただき、後輩に恵まれ、ここが居場所そう思える5年間の修行でした。
これで実家に戻る。その前にやり残したことはないか自問自答して見つけた一つの夢
それが海外渡航でした。調べに調べてワーキングホリデー生活をオーストラリアで1年過ごすことに決めておりました。付き合ったばかりの若女将レイコもそれを承知してのお付き合い、2人は1年付き合い1年日本とオーストラリアで離ればなれになりました。
まさに人生の夏休みと言わんばかりのオーストラリア生活で人生修行を終え、いよいよ
そうまさにいよいよ亀山温泉ホテルに戻ってくることになりました。



5年3カ月での福一の修業、全国的に評価の高い大型旅館での経験と自分なりの感性センスで、亀山温泉ホテルを全国的に立派にして行くのだと

意気込んでました。


まさに順風満帆に人生を歩んできた私、最高のパートナーと結婚し共に旅館を盛り上げていこうと

盛り上げられるはずだと思っていました。

そう未来は果てしなく明るく、そして約束されているのだと。
その時の自分は何も知らなかったです。
続く